栗原孝太郎の半生 - History of Kurihara Koutaro
これまでの20年、
そしてこれからの20年
はじめまして。
BLUE DESIGN GROUPの代表の栗原孝太郎と申します。
私たちは、おそらく全国的にもちょっと珍しいまちづくり会社です。
この会社の想いや、挑戦してきた歴史や背景を説明させて頂くべく
ちょっと恥ずかしい私の自己紹介も踏まえて長文ですが
一読頂ければ幸いです。
PROFILE
- 1982
- 佐賀県唐津市生まれ
- 1995
- 唐津市立鏡山小学校 卒業
- 1998
- 福岡舞鶴誠和中学校 卒業
- 2001
- 福岡舞鶴高等学校 卒業
- 2005
- 西南学院大学商学部商学科 卒業
同年雑誌をスポンサーに付けバックパックとギターを持ち
現株式会社リクルートに新卒入社。銀座本社勤務。 - 2006
- 当時最年少にてチーフ職に昇進 卒業
- 2007
- 株式会社リクルートを卒業し唐津に帰省し家業継承 卒業
- 2011
- 会社の業績を10倍にし29歳にて代表取締役に就任
- 2018
- ベーシックプロスピーカー試験合格
資格
建築士、宅地建物取引士、
不動産資産相談士、相続診断士
趣味
ゴルフ、サーフィン、ドラム、
ギター、作曲、クリエイティブ作成
EPISODE.1
「もっと、広い世界へ」
1982年、私は佐賀県唐津市に生まれました。
栗原不動産という会社を営む父親。
これが、BLUE DESIGN GROUPのはじまりです。
そう、私は2代目の経営者です。
過去何度、金持ちのボンボンと言われたことか。
ボンボンは間違っていないかもしれませんが
金持ちではなかったですね。
お人好しの父親。
私が幼稚園生の頃、友人に貸したお金が返ってこなくて、
多額の借金を背負いました。
家計も厳しく、私達は度々祖父の家で食事をしていた記憶があります。
それから、祖父(材木店経営)の援助もあり、
なんとか経済的にも持ち堪えた栗原家。
小学校に入学する頃には、
徐々に人並みの生活ができるようになっていました。
私自身は、小学校の時はバスケに汗を流し、
唐津代表になったことも。
しかし、6年生の時の話。人生を変える事件が起きます。
クラスの友人達から集団でシカトされるようになったのです。
今でいういじめみたいなものですね。
結構、学校ではイケているグループに所属していましたが
その立場は底まで転落しました。みじめでした。
修学旅行もひとりで行動したのは、ツライ思い出ですね。
家族のお土産をポツンと1人で買っていた、孤独な姿。
親にも相談できずに、「長崎の修学旅行楽しかった?」と聞かれて
「楽しかった!」とウソを言った記憶があります。
心配させたくないという気遣いだったと思います。
そして、私はこう思いました。
「卒業して違う中学に行き、自分の環境を変えたい」
今思えば、恐らく私にも悪いところはあったと思います。
だけど、よってたかって一人を・・・。
愛の反対語は無関心とマザーテレサが言っていましたが
本当にそうだと思います。自分の存在が無視され、
いてもいなくても変わらないということを思った時
自分は世の中にいなくても良いのでは。と思うこともありました。
今では彼らと仲直りもしていますが、
昨日まで友だちだったからこそ余計に辛かったんです。
初めて知った人の痛み。
自分は、絶対に人をいじめないと誓ったのでした。
小学卒業後は、逃げるように福岡市の私立中学校へ進学。
別に勉強は好きだったわけではありませんが
環境を変えるために、全く友人のいない
私のいじめの過去をしらない環境で再デビューを狙いました。
中学校は、新設校で、私達が第一期生。先輩もいない。
しがらみもなく、とにかく自由でした。
広い世界に飛び込んだ僕は、いろんな刺激を受けます。
映画、音楽、ファッション。友人もたくさんできました。
貧乏だった両親は自分たちは何も買わず、子供のやりたいことを
応援してくれる人たちでした。
その当時高額なパソコンも買ってもらい作曲とか始めました。
その時から、クリエイティブなことに興味があったんでしょうね。
徐々に、世界を、視野を広げていきました。
そして、中学校2年生のとき。
中学1年生の時に自宅に受けいれたオーストラリアの
ホームステイの留学生に 会いに行こうと決断し
子供3人だけでオーストラリアに行くという体験をしました。
某大手の旅行会社に勤務していた親戚に
書類を誤魔化してもらい中学生で単身渡航。
美しい自然や文化。
「世界って広い。まだ知らないことがたくさんあるな」
と思ったことを今でもハッキリと覚えています。
一番記憶に残っているのは、もじもじしていた私に対して
オーストラリア人が、「なぜお前は自分の意見を言わないのか?」
「お前は嘘つきでチキンだ」と言われて
かなりショックだったことを覚えています。
日本では意見を言わない美しさや美徳がありますが、
世界にはこういう考え方があるのかと。
そして中学は私立の中高一貫校だったので
高校進学は、エスカレーター式に。
高校生では、友人とバンドを組んだり、遅くまで語り合ったり。
取得した原付免許で移動範囲もどんどん拡張。
また、今では時効ですがヤンキーの友人と
バイクでちょっとやんちゃしたり。
まさに青春を謳歌しました。
モテたい、遊びたいオーラ全開でした(笑)
そんな楽しい時期にも、終わりが来ます。
進路を決めなければなりません。
当時の国立の九州芸術工科大学(現在の九州大学)の
音響設計学科の進路の道を目指しインターンにも行き、
教授にも気に入ってもらえましたが
どうしても5教科の勉強ができずに(特に古文とか。。。)
国公立大学を断念。
理系から文系に進路を変え、
得意だった、数学、物理、英語などで私立を受験。
九州の西南学院大学の商学部に進学しました。
さて、花の大学生活の始まりです。
DJ音楽サークルに所属し、クラブでイベントをしたり
長期休みの時には鹿児島の有機農家の家に住み込み農業体験したり
富士山に登ったり、勉強以外にもたくさんの経験をしました。
大学3年生の時は大学生を集めて
福岡ドームでの運動会などを行い
イベントの黒字化を達成。
大学生しかできない体験をしました。
その頃からか、大きなことをしたい。と思うようになり
就職は、公務員になりたい!
地域を変えたい!
国家公務員、そして官僚になってやろう!と思っていました。
親に頭を下げ、国家一種の公務員試験の
勉強をするスクールに入り勉強。
そして、経済産業省の門をたたき、コピー取りでも掃除でも
何でもいいからやらせて欲しいと、無理やりインターンを
申し込んで 受け入れてもらいました。
しかし、ここで転機が。
当時、公務員の方々は今のように
ワイドショーなどでがんがんに叩かれるまえで、
お金の使い方の管理に厳しい環境ではなく、かなりゆるゆるでした。
かなりの頻度で飲みにつれていってもらい
(あれも税金で経費だったのかなぁ?)
恐らく税金で買ったタクシーチケットをもらう日々。
なんか、ちょっと違うなと思い始めました。
誤解なきように補足すると、そのような中でも、毎日夜遅くまで残って
お仕事を頑張られていた、尊敬できる公務員の方もいました。
でもその人が、飲み会では「あいつ変わりもんだから」と、
ちょっとバカにされていて 大人のいじめにあっているような感じでした。
再び進路に迷いが生じ、まちを変えるには
公務員しかないと思っていたのですが
私が、色々な大人の方に相談すると
公務員以外のまちづくりという
ちょっと違うアドバイスを頂きました。
それは 「大きなことをしたい、まちを変えたいと思うなら
東京に行き 一生懸命ビジネスの世界に身を置き
自分の能力を高めなさい、 そこで民間からまちに
一石投じていきなさい」と。
バカで素直だったので、じゃあ、東京に行こう!思い始めました。
親には頭を下げて公務員の資格学校を辞め、就職活動へと進路変更。
ここでも親に好き勝手やらせてもらったので感謝ですね。
当時は就職氷河期で、九州の西南学院大学の環境だと
東京の会社がなかなか 採用面接などは来てくれず
東京に半分住み込みのような形で
就職活動にチャレンジ。
東京でチャレンジの中、周りは東大、早稲田、慶應とか
ゴロゴロいて
完全アウェーでの戦い。
西南学院大学をほとんど知らない。
面接官に「西南学院って鹿児島の大学?」とか言われて
「そりゃ西郷隆盛の西南戦争じゃ、ボケ」と、
こころの中で叫び
悔しかったので、必死に努力。
でも、東京のシティボーイにはない、
このSAGAの田舎臭さが逆に目立ったのか、
大手を含む、たくさんの会社様より内定を頂きました。
就職先は色々と悩みましたが、
卒業生から社長がめちゃくちゃ誕生して
いつも変なことをやっていて、元気で
面接の時に「仕事が楽しいと人生が楽しい」と語っている
ある会社がありました。
「お前は仕事の月曜日から金曜日まで
いやいや我慢して生きていく仕事の人生と
しんどいこともあるけど、楽しい仕事の人生と
どっちがいい?でも後者は楽しいけれど、楽じゃないよ」と
ガチで語っていた変な会社に最後は決めました。
現在のリクルートホールディングスという会社です。
変な会社でしたが、気づけば私が卒業した後に上場して
今では日本の時価総額10位以内くらいにいる
今はちょっとまともな会社です。
就職先が決まったら、卒業までは自由の身。
当時の電波少年という番組の猿岩石の旅に
おもしろさを感じていた僕は
「ユーラシア大陸横断」の旅に出るのです。
今考えると、たった1人で超無謀な旅。
お金がなかったので、企画書を書いて有名雑誌社に提案。
「ギター1本とバックパック1個。
陸路とヒッチハイクで移動し、危険な場所にも行きリアルな旅日記を投稿する!」と。
今で言う変なYoutuberみたいな企画をぶち上げ
有難くもスポンサーになってもらいました。
連載を寄稿しながらの旅。
ちょっと有名な大学生になりました。
20年以上前の東南アジアや中東、ヨーロッパだったので
途中何度か死にそうになったのですが、それはまた別機会に。。。
でも良い挑戦の経験でした。
無事に帰ってきたら、いよいよ花の都東京で就職。
ここまでが第1章。2章へ続きます。
EPISODE.2
「上京、駆け抜けた日々」
就職を機に上京した私。
同期が栃木や群馬など、地方に配属される中、
私は銀座のど真ん中に配属されました。
リクルート社での人材広告の
営業マンとしての人生がスタートします。
課せられた新人の目標は、自分のエリアで新規開拓を12件。
しかし、他の同期の地方配属とは違い
銀座は激戦区。
ライバルだらけで新規開拓なんて
かなり厳しい状況でした。
それでもなんとか11件の新規顧客を獲得。
新人にしては激戦区で善戦したということで
超チヤホヤされました。
私もちょっと天狗になりました。
しかし、一人だけ熱く私に説教してくる人がいました。
社会人になってはじめての私の上司でした。
「目標は給料をもらっている以上やって当たり前なんだ。
お前は未達なんだ。何をヘラヘラ笑っている?
俺はお前にそんな大人になってほしくない。」と。
昭和の熱血ラグビー教師的な熱い思いに
愛あるフィードバックを感じました。
確かにそうだと。
自分に未達のクセや思考をつけないように、
スイッチが入りましたね。
ゆとり世代に入るか、入らないかの
中途半端な世代で育った私でしたが
こんなに自分に厳しくも
愛情をかけてくれる人が逆に珍しく、
この人を男にしたい、神輿担ぎたいと思いました。
心から尊敬できる人との出会いでした。
そして、最高のチームメンバーや先輩たちにも恵まれ、
最後の頑張りは、 人のためだというのも知りました。
自分のためだけではなく、チームに貢献したい。
あの人に喜んでもらいたいと。
それからは、当時では最年少で異例のスピードで出世を遂げ、
難易度の高い目標も立て続けに達成。
プレイヤーからちょっとした管理職になり
メンバーも持たせてもらい
仲間たちの皆とたくさんの祝いのお酒を飲み交わしました。
リクルート社は、珍しい会社で、独立を推奨する風土があり、
ちょっと平均よりも早過ぎましたが
私も卒業という選択を選び、
ふるさと九州にて挑戦することを決めました。
ここまで、約2年の東京生活。
短くも、濃い時間でした。
そして、いよいよ第3章からは、ふるさとの唐津へ。
EPISODE.3
「帰郷、そして2代目へ」
唐津に帰った私。
上京するときは一人でしたが、
帰郷するときは東京出身の恋人で今の妻が一緒でした。
「唐津ってどんなところ?」と聞かれて
「映画館以外なんでもあるぜ」とイキって答えた私。
妻が唐津に来た時、福岡空港から
筑肥線で唐津に向かったのですが、
鹿家駅という無人駅に着いた時に、
妻曰く、灯りがひとつもなく、
山奥の変な村に拉致されるのではと思っていたそうです。
これ詐欺じゃん。と。浜崎駅が見えて灯りが見えて
ちょっとほっとしたそうです。
さて、これからどんな仕事をするか?
まだ、家業を継ぐとは考えておらず、
とりあえず、家を借りようと。
不動産業をやっていた父に部屋を借りたいんだけれどというと
うちは賃貸とかはやっていないとの返答。
ええっ!そうなの?とびっくりし、
しかたなく、近隣のある 一軒の不動産屋さんを訪れたのです。
「賃貸のお部屋を見せて頂きたいんですが。。。」とすると
「なんや、賃貸か」とちょっとめんどくさそうに
言われたのを覚えています。
確かに売買のような高額な取引では
ないかもしれませんが、無職の私にとっては大きなお金。
ちょっと、その対応はなくない?と心の中で思いました。
東京や福岡で部屋も借りたことあるけど、
もうちょっとしっかりしていたなぁと。
妻にも申し訳なくて・・・。
でもそのアパートを借りるには、 この不動産業者様に
仲介手数料のお金を払わなくてはいけなくて。
「経験も知識もないけれど、私なら
きっとお客様の不安な気持ちがわかり寄り添える!」と
大変失礼で人のことを言えた大層な人間ではないですが、
青臭い若さゆえに 「この胡散臭い業界を変えたい。
不動産の賃貸サービスをやろう!」と思いました。
「俺が賃貸の事業をやる!」と、
父もびっくりしたと思います。
あれが父の策略だったら、とんでもない策士ですね。
そして父の経営する、小さなプレハブの事務所、
社員3人の会社「栗原不動産」へ入社が決まりました。
私は賃貸の事業部を新規で立ち上げていたので、
社長の父親のことはほぼ無視して、 我が道を突き進みました。
ある意味、個人事業主的な人生がここから始まります。
当時、まだアットホームやSUUMOなど
ポータルサイトという情報サービスや概念がなく
1箇所で不動産賃貸の情報が見れない時代。
唐津中の不動産業様を回って、情報を扱わせてくださいと
頭を下げて何度も訪問しました。
結果は、惨敗。
力も人脈も経験もない若造に対して、冷ややかな目でした。
でも、負けない。
きっと困っている人がいるとなけなしのお金を払って
「唐津不動産ドットコム」というホームページをつくって
掲載を承諾していただいた情報を発信。
来て頂いたお客様に一生懸命案内をして、
ありがたくも申し込みを頂いたお客様には
サプライズで、一眼レフで撮った家族の写真を加工して、
額に入れてサプライズでプレゼントしていたんです。
当時は一眼レフも普通に持っている人は少なくて、
当然、iPhoneなどの高画質なスマホもなく
背景をぼかし、Photoshopのソフトで仕上げた写真は、
ちょっと素敵だったんです。
それにとても喜んでいただき、口コミを呼び、
栗原不動産賃貸事業部には
ドンドンお客様が来てくれました。
芸は身を助けるんですね。
東京の広告会社で働き、クリエイティブなことを
やってきた 経験が生きた瞬間でした。
次第に、賃貸だけじゃなく、
不動産売買の相談に乗ってくれない?との
お声がかかり 不動産の売買事業も携わり、
ついに住宅建築の家づくりに携わるようになりました。
「他社様がやらない家づくりを!」と考え、
目に見えた業界の習慣を変えていきました。
まずは、かっこいい家をつくろう!
まちを美しくしよう!
地域の誇りをあげようと!
色々なデザイン、建築設計を学び、
宅建はもちろん、建築士も独学で取得しました。
その後、私の感性と、自社の職人さんたちがつくる、
一風変わった家づくりをする 「孝和建設」という会社は、
デザインが良い会社という認知を地域の皆さんからいただきました。
その次は、快適な住まいを提供したいとのことで、
この地域ではかなり早く
高気密、高断熱の高性能住宅を提供し始めました。
売り上げは5年で10倍、従業員数も気づけば30名を超える規模に。
正式に29歳で「栗原不動産」「孝和建設」の代表取締役に就任。
福岡、長崎、そして関東地区からなど、
他県からもいろんな人が入社し
会社の勢いもすごいものでしたね。
まだ20代の経営者ということもあり、かなりチヤホヤされました。
今考えると恥ずかしいですね。
そして、ここからが転落の始まり。
崩壊は、社内から起きました。
それまで、勢いで、何があっても
「ドンマイ!オッケー!」という感じで、
怒らずに社員に接していた僕。
今考えると、いじめられた経験から
人に嫌われるのを恐れていたんだと思います。
ミスをした社員に
「大丈夫だよ!」と言い続けると、改善しない。
すると、それが家づくりに出てきます。
社内のどこかからか、もっと、楽に効率的に家をつくり、
利益をあげようと。
そしてもっと給料をあげようと。
給料をあげることは悪いことでは決してないですが、
良いサービスを行った会社が 得られる対価であります。
当然、そんなムードの会社の家づくりは
悪い方向に進みます。
見た目のかっこいい家をたくさんつくり、
ウケが良いのでどんどん売っていこうという
路線に進んで行きました。
良い家を。ではなく、売りやすい家を。です。
当然、当初の家の斬新さは消えていき、
右肩上がりの業績も踊り場へと下降の転機を迎えました。
ムードも悪くなり、頑なに良い家づくりを唱える、
怒らない二代目のボンボンに対しての
批判がどんどん強くなっていきました。
最後には「社長が悪い」「あいつは無能だ」「理想論の夢見るバカ」
「ノウハウは得たし会社を辞めて、楽に儲かる会社をつくろう」という
空気になっていきました。
止められない悪循環。
一度も社員に怒鳴り散らしたことのない社長でしたが
大量離職につながるのです。
賞与の時期とか辛かったですね。
一部の社員さんは強い労働組合的なカタチとなり結束し
賞与を上げないと、辞めるという交渉や
会社を訴えるという交渉をしてくるのです。
弱い私は、脅しに屈して、その場限りの浅はかな処置をするも、
問題の根本改善にはならず
賞与支給後にはあっさり離職されたり、
その離職したメンバーでつくった会社の噂も耳に入ってきました。
その人達からタイムカードを偽造した
残業代未払い請求の訴訟もありましたね。
なんでそんなことしたのか、後から風の噂で聞いたのですが、
あいつ人に強くモノ言わないし、ピンチだから金で
解決してくるから試しに訴えてみた。とのことでした。
一通りの辛い試練はこの時期、
体感したような記憶があります。
ますます人が信じられず、
好きになれず、悩み、苦しみ、そして悲しみ、
家でも眠れない日々が続きました。
本当に、辛かった。
業界誌などでは一時は時の人で、
異業種からの革命児的な扱いを受けていましたが
風の噂で業界の中から「あいつは終わった」
「一発屋」と言われているような話が耳に入ってきました。
そして自分も、「経営には向いていない」と思うようになりました。
同時期に、幼稚園生だった最愛の長男が、
発達の障害を持っているという宣告を受けました。
仕事でも試練、父親としても試練。
神様、自分は何かしてしまったのだろうかと
どうして自分だけがこんなに不幸に。。。と、当時の自分は弱く、
視野も狭く、その事実を受け入れることができずにいました。
たまにTVで売れていた芸能人の方などが
転落していかれるような状況を見かけますが
まさに当時の自分がそのような状況下にいたと思います。
やまない雨はない、明けない夜はない。
誰もが聞いたことがあるような言葉を自分に言い聞かせ
必死に耐え忍ぶ毎日でした。 そして転機が訪れます。
こんな自分でしたが、建築会社の代表者でもあり、
子供も3人授かっていたので 新築の家を建てていたんです。
これで何か変わるかもしれないと。 そんなある日、
家に帰ると子どもたちの友達が遊びにきていて
遊びにきていた友だちに向かって、
「ボクたちのパパは社長なんだよ!」と自慢していたんです。
それを見た瞬間に、何かが自分の中ではじけて涙が溢れてきました。
「俺はそんな立派な社長でも、人間でもない」と。
子供が誇らしく語ってくれている像と、
現実の自分のギャップに 情けなさと、申し訳なさで、
父親も、社長も失格ではないかと。
その夜、妻にその出来事を話しました。
「良い経営者でもなく、良い父親でもなく、
そして良い夫でもなく、
家族を幸せにできず申し訳ない」と。
おそらく、誰よりも私の苦悩を間近で見ていた妻。
夜眠れなくて、もがいていたこと。
食事が喉を通らなかったこと。
じっと家にいると悪い考えが浮かんできそうで、
外に走りに行っていたこと。
楽しいはずの家族旅行なのに、
仕事の悩みで頭がいっぱいで上の空だったこと。
そんな私の姿を見ていた彼女から出てきた言葉は意外な一言でした。
「えっ?私別に幸せよ。可愛い子供3人に恵まれて、
普通に生活もできているし」と。
そして彼女は言うのです。
唯一辛いのは、苦しんでいるあなたを見る事だと。
そんなに無理しないで、仕事でうまくいかなくても死ぬわけじゃないし。
頑張りすぎないで、自分のペースで。
私たち別に欲しいものもないし。
そのような言葉を私にかけてくれました。
そしてびっくりするような言葉を言うのです。
「あっ、この新築の家一回売ろうか!
またアパートもアパートでそれはそれで楽しくない?」
「そして私暇だし、また働こうかなと思ってるんだ」と
新築の家、売るとか、絶対本心ではなかったと思いますが
彼女なりの、私の重しやプレッシャーを
少しでも軽減しようとしてくれての言葉でした。
その言葉を聞いた時、自分の中でまた何かが弾けました。
今まで、経営者として学んでいた
偉人の言葉や自分を律する自己啓発などの考え方。
「事実は一つ。解釈は無数」
「人と過去は変えられない、変えられるのは自分の行動のみ」
「考え方が変われば行動が変わる、
行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人生が変わる」
などなど。
事実、私自身を含め栗原家は間違いなく逆境にあったと思います。
しかし、そんな中、経営者として学んでいない、
妻が前向きな考え方を持ち 私はくよくよくよくよしている。
何をしているんだと。
この時に、自分の考え方が
超ネガティブになっていることに気づきました。
社員の大量離職の中、
人が信じられないと思っていましたが、
人の悪いところばっかりをみていましたが、
気づけば泥舟のような状況の中でも
自分を信じてついてきてくれる社員さん達もいたんです。
長男は、発達の障害を持っている事実はありますが、
彼の人生は不幸と決まったわけではない。
障害を持ちながらも幸せに生きている人はたくさんいる。
不幸と決めつけていたのは
ネガティブな自分の考え方だったと。
ちょっと待て。
このまま自分 が終わっていくと、残ってくれた社員
自分を信じて託してくれたお客様、
支えてくれると言ってくださったパートナーの職人さんや業者様
目をキラキラと誇らしく思ってくれている子供たち
そして、例えるならば、売れない芸人時代をずっと、
そっと支えてくれるような、 献身的で、
人の悪口とか言わない、いつも笑っていてTHEいいやつである、
妻まで、
みんなみんなを、周囲から、ほれみろと、
栗原孝太郎を支えてくれたことを 間違いにしてしまう。。。
それだけは、絶対に絶対に嫌だ。
この人たちにこそ、自分の人生をかけて恩返ししなければいけない。
そのためには自分がやるしかないと。
ここで2代目のボンボンの心に本当の意味で火が灯り
熱が生まれました。沸点に達しました。
今までも熱くはあったけれど、
100°Cに達していなかったんです。99°C以下だった
本当の意味での覚悟、そして人のためにという、あと1°C。
これが足りていなかった。
自らを変えよう。必ずやる。
ここから自分の中でリーダーとしての自覚や強さが出てきました。
どんなに遅くなろうとも、毎朝早くに起き、社員の全ての日報に
感謝の返信を行い、会社に行く時には、元気で明るく挨拶し、
人のいいところを徹底的にフィードバックし、勇気を与えていこうと。
そして、漫画や映画ではないので
ここからすぐに大逆転というストーリーにはなりません。
覚悟が芽生えたものの、何度も何度も、線路の枕木の如く
試練が自分に襲いかかるのです。
でも、誰のために何のために、という目的を持った私は
相変わらず弱く、何度も打ちのめされるも、
その度に何度も立ち上がりました。
立ち上がれた理由は、妻や、子供や、社員さん達、
業者のみんな、そしてお客様 信じて、
支えてくれた人々に恩返しするためという誓いと
もう一つ理由があったんです。
それは長男の発達の障害でした。
彼が幼稚園生の時に、発達障害の宣告を受けました。
今でも忘れませんが、目の前が真っ暗になりました。
会社を継いでくれるかなぁ、スポーツや勉強で一番を取れるかなぁ
子供の人生は子供の人生ですが、心のどこかで色々な期待を
していたものがガラガラと崩れ去り、
自分でも一杯一杯だったのに、長男には申し訳ないですが更に
重しがのしかかってくるイメージでした。
ひるむことなく堂々と宣告を受ける妻とは対照的に
私は動揺していました。
その時、そのお医者様が私に言ったんです。
「お父さん、障害は不幸なのでしょうか?」と。
正直、その時は、ふざけるな、お前に俺の気持ちがわかるか!と
心の中で怒りが込み上げてきました。
でも、この言葉の意味が自分が試練と
戦い成長していく過程で後からわかりました。
障害をもっても幸せに生きている人はたくさんいる。
障害が不幸だと決めているのは自分の考え方だと。
「事実は一つ。解釈は無数」
そう、今置かれている逆境も不幸ではない。
これを乗り越えたら、自分はきっと、
もっと人の痛みがわかる 強い経営者になれると。
そして、愛する長男は生涯という事実から逃れることはできない。
自分が人生最大のピンチから逃げていては
将来、もしかしたら壁にあたり悩む彼に、何と勇気を与えるのかと。
何度、彼のスヤスヤ眠る顔に勇気をもらったか
自分を奮え立たせたか
本当に彼には感謝です。
この発達障害の子育てに出会わなければ 今の自分はいません。
やっと今、強がりではなく、本当の意味で、障害も含めて子供を愛し
この子供で本当に良かったと言える自分がいます。
まさに事実は一つ、解釈は無数。
考え方で人生は変わる。
心のどこかで うまくいかないのを
人のせいにしていた弱き自分ですが
再起を誓ってから、 「責任は全部自分にある」と
本当の意味で考えるようになりました。
この状況に舵を切ったのも自分、
この状況に至ったのも自分の経営能力不足
社員さんも採用したのは私で、悪いのは社員さんではなく、
私の教育やマネジメントだと。
そうすると社員さんや周囲も
「社長だけのせいじゃないよね」
という風に変わっていったんです。
面接も変えました。
今までは 求職者の方に対して
ちょっと話を盛っているところもあったと思いますが
正直に今までの挫折の経験を赤裸々に話し、
「こんな私だけど、どうですか?」という風に。
気が付けば、弱みを見せられる強さを手に入れていたのです。
家づくりも変わりました。
それまでは、デザインの会社と言われていましたが、
おそらく見た目のところを言われていたと思います。
もちろん、美しさにはこだわり続けますが、
それが第一順位ではなく 人を癒し、
暮らしを豊かにする、幸せをデザインする家をつくりたいと。
人の暮らしに価値ある違いを提供できる、
幸せをつくる家をつくろうと考えるように。
すると、建築会社は弊社も含めて星の数ほどありますが
共感頂き、質を求めるお客さまが集まって頂く会社になりました。
おかげさまで、どんどん、弊社のレベルも磨かれます。
高いレベルなので、大変ですが、やりがいもあり楽しいです。
今は、本質を追求する喜びを感じています。
いろんなことを乗り越えてきたから、自信があります。
こんな私ですけど、一緒に家づくりをしてみませんか?
EPISODE.4
「そして多角化、まちづくりへ」
24時間365日 ほぼ仕事の毎日。
でも仕事は楽しかったですね。
怒涛の30代を過ごし、40代に向かっていく中
社会人になってもたくさんの旅をしました。
そして、その少しの合間の休暇で行く、
プライベートな旅行も、当然楽しかったです。
バリ。ハワイ。カリフォルニア。沖縄。
ここで感じる、ゆったりとした時間の安らぎや、
非日常を楽しむ家族の笑顔。 最高でした。
この体験を家でもできないか。
この業界は、見た目のデザイン、
性能、太陽光、ZEH、耐震などに
一生懸命で、人を癒し、幸せにする概念がどこか少ない。
家事楽や、効率動線、たくさんの収納。
どれも大事だけど これは生活を便利にはするが、
幸せをつくるという事とは、
どこか
本質的なズレや違和感を感じていました。
人を幸せにする家とは?
家だけで良いのか?
家庭という時は、家と庭と書く。
今の家づくりって、家と駐車場になっていないか。
家の設計を工務店やハウスメーカーがして、
庭は外構屋さんと呼ばれる人がつくる、バラバラの設計施工。
本当にそれで良いのか。
そんなことを思い、コロナ期間中、
既に建築していた
自邸の勉強不足でつくった庭を全面的にやり直しました。
三密をさける、外への移動自粛が叫ばれ、
旅行もできず息苦しかった日々を変えるべく
我が家を徒歩0分のリゾート空間に。
完成後、生活が楽しくなりました。
何気ない日曜日の朝。
庭で家族でパンを食べコーヒーを飲む。
庭でライトとキャンドルと月明かり、
そして水盤の美しい青い光の揺らぎで
風を感じながらガーデンダイニングとお酒を楽しむ。
最高でした。
発達障害の長男も外の公園などで
友達と遊ぶタイプではなかったので
彼にも 家の中で、癒しの空間を提供したいという思いもありました。
この経験は、同時にプロの自分でも家の可能性に気づけていない。
悔しい。そう正直に思いました。
これが日本の建築業界の現状だ。
異業種出身の私は正直にそう思ったんです。
家が生活するだけの場所になってしまっている。
庭は、たまにBBQする場所だけではもったいない。
楽しみや、癒しや、幸せが忘れ去られている。
私は対して賢くはないかもしれませんが、
素直で挑戦できる行動力はあります。
リゾートを海外旅行や沖縄旅行に行った人が
楽しめるものではなく 家でも楽しめるように。
まさにこのまちからリゾートの
民主化を図っていきたいと思いました。
私も会社経営者なので、ビジネスを考えなかればいけない。
ビジネス的に経済的なものを
全く追っていないかと言うと嘘になってしまいますね。
ただし1番ではないというのは真実です。
この暮らしをもっと伝えたい。
それはきっと人を豊かにする。
人を豊かにすれば、自分もその後にきっと
もっと経済的にはもちろん、人の喜びを感じ、
心も豊かな人生が待っていると思っています。
最近、海外を放浪していた時の若き自分と同様に、
ふと立ち止まり想いにふけるんです。
自分は何がしたいのか、自分はどんな人生が生きたいのか?
何をするために生まれてきたのか、
人にどんな価値を提供するために生きるのか?
自分が棺桶に入る時に、
お金などは当然あの世に持っていけなくて、
必ず迎える死の時に当然未練はあるけど、
後悔しない満足のいく人生とは何か?
それは、自分の仕事を通じて、
このまちにチャレンジし続けて
このまちを良くしていくことに、
使命として命を使っていくことだと思っています。
ユーラシア大陸の横断の際に大学生の頃に書いていたブログを
20年の時を超えて、改めてみてみました。
そこで不安や恐れを抱えながら
挑戦している若き日の自分を見て、
そしてそのブログにて勇気づけられている
たくさんの人々のコメントを見返し
あぁ、よくやっていたなぁと思いました。
そこから社会人になり、人生振り返ると、
異業種出身からこの不動産業界と建築業界をもっとより良くし
まちを、よくしようと思いやってきたことがたくさんあるなぁと。
20代前半から今にかけて沢山の挑戦をしてきました。
不動産の透明性、クリーンで誠実な筋を通す不動産会社をつくる挑戦。
デザイン住宅、そしてデザインだけではない
高気密高断熱をこのまちに普及してきたこと。
新築住宅だけではなく、築100年の古民家を
リノベーションという言葉が世に出る前にリノベしたこと。
たくさんのTV取材を受けました。
木材小屋をリノベして地域初の
リノベーションオフィス「MOKUMOKU」を建てたこと
フルオーダー注文住宅モデルハウス「LOOP」をつくったこと
コンテナハウスにチャレンジしたこと
デザイナーズ付加価値不動産投資賃貸をつくったこと
庭の事業に自社で参入したこと。
BLUE GARDENなる水盤やプールの施工にチャレンジしたこと
家だけにとどまらず、店舗設計、工場倉庫の設計、
事業企画アドバイスをはじめたこと
カーテンレス設計というものを開発し、
特許庁に商標を申請し、
TBSがっちりマンデーに取り上げて頂いたこと
青天堂という辰野金吾をオマージュした、
新しい唐津の飲食店を自社プロデュースしたこと
BLUE LIFEという、福祉の世界に新しく挑戦したこと
BLUE HOTELSというこのまちに
新しい宿泊ヴィラをうみだしたこと etc…
振り返ってみれば
事業で挑戦し成長した経験で、また新しい事業を立ち上げ
生み出した、経済的価値を、タワーマンションや
高級スポーツカーなどではなく
このまちの発展に打ち込んできた人生でした。
おそらく、物欲や所有欲よりも 事業欲や、人が喜ぶこと、 まちが元気になることの方が楽しいのでしょうね。
20年以上続けてきた、この会社の
「価値ある違いをつくる」
「この地域になくてはならない存在になりたい」という
事業の目的、ビジョン、信念は
これからも、変わらず続いていきます。
たとえ何歳になろうとも。
青をデザインし続ける。
そう。
EVER BLUE 青いままで。
ここまで、かなりの長文を書きました。
一読頂いた方は、本当に物好きであられますし 笑、
本当にありがたく感謝したいです。
決して、みなさんがみなさん、私たちのこの考えに
共感する必要はないと思っていますし、
全員に応援されるかどうかはわかりません。
でも、私たちは、社会課題を解決し、
まちを元気にするために
これからも、デザインを続けていきます。
もし皆さんが、住生活をはじめ、
弊社が扱うサービスに興味を持ったのであれば
一度、弊社の門を叩き、相談してもらえればと思います。
営業や売り込みを一方的にされるのは、
大嫌いだし、悪だと思っているので
そこは会社のルールとして、
文化として、それはないとお約束しますね。
私たちが行いたいのは、有益な情報提供。
あなたが知らない、こんな暮らし方ができるということを、
体感してもらえる 色々な取り組みが弊社にはあると考えています。
これは一度体感して欲しい。と強く思っています。
結果、我が社でのサービスではなくてもOKです。
それはそれで、色々な視野を実際に見た上での結論なので更に
あなたの建築や不動産売買の選択肢につながるのでは。と思います。
建築、不動産で人の人生やまちが変わると
本気で思っていて だから建築、不動産を絡めて
色々なまちづくりをこれからもやっていきます。
やりがいのある仕事ですね。
まだ見ぬ青い世界を想像し、
お客様、そして働く仲間と共に、
青きデザインをつくり、共に幸せになっていきたいです。
その幸せをつくり出すことが、
きっとこのまちを、
もっと楽しく、元気にする。 そう信じて。
「価値ある違いをつくる」
BLUE DESIGN GROUPはこれからも 青い世界をデザインしていきます。
代表 栗原孝太郎